2015年4月12日日曜日

まとまった文書はじめるってよ


 仕事が嫌で嫌で仕方がないというのは、あまりにありがちで、ありふれていて、どうにも聞き飽きた話題だ。


 歳の近しい若い労働者は酒の席で、恒常的に仕事の愚痴をこぼし、対人関係という避けては通れない煩わしいそれの疲れを、なんとか癒そうとする。そういった話題の面白みには、低めに設定された限界がある。最後には語る側も聞く側も、大なり小なりの酩酊だけを獲得しそれをぶら下げて終電の一本前くらいの電車に揺られ、嫌に冴えた目で明日のことを考える帰路を過ごす羽目になる。

 「退屈な愚痴をこぼしてしまうくらいなら、いっそ現職を退いてしまおう。」こういった発言は単なる自己表現、また聞き手の否定という返球を前提としたアンダースローのスロウボールのごとき会話のきっかけであることは、聞き手も話し手も知っている。それを前提に、言葉による癒し合いを目指し、双方がときには無意識的に発言し、ときには意識的な駆け引きをすることで、精神的不安は多少除去され、引き換えに精神的疲労を獲得していく。

    転職サイトを眺め、初耳かつ意味不明、もしくはやんごとなきグローバルさを備えた会社名と、複雑で解読困難な文字の羅列によって説明された仕事内容に目を通し、「ゲェ、こりゃあきまへんわ」とスマートフォンを閉じ、勤務先の最寄り駅で電車を降りていく。これではまるでぬるま湯、そこから出るに出れない、出たくないって状況ではないか。寒い季節のぬるま湯みたいに、身体が十分温まる訳ではないからケチはつけるが、湯船からあがるよりはマシっていう状況ではないか。




    他人事のように綴ったがもちろんこれは私自身の話である。情けなさがあるからこそ、客観的に他人を貶すような言いまわしになったことをご容赦いただきたい 。





 私は何が好きだったのか。最近はそういったこと考えるたびに、新しい何かにすがろうとしてきた。裏切られた(と当人が勝手に思っている)過去の癒しにもう一度すがったところでまた裏切られる(と当人が勝手に思う)のではないか。ならば新しい「好きなもの」をこじ開ければ、裏切られたとしても同じことの繰り返しにはならないのではないか。

 そんなふうに「好きなもの」目を背けてきたのがここ2年弱だった気がします。

 もちろん、そのスタンスでもっていいこともたくさんあったので、本来なら「目を背ける」なんで言い方はしたくないのですが。


 私の人生はもう、広くあらゆる可能性に開かれている訳ではないのですが、妥協しながらでも選択をすることは不可能ではないはずです。選ぶことをするかしないかすら選べない、決めるか決めないかを決めることすら器用にできなくなっているのは確かですが、なにかをきっかけに舵をとっていければと、最近は思います。


 しょっぱなから何が言いたいって、こんな混乱した文章を綴ってしまうような私の脳内を、ブログを書くことでちょっとでもお掃除できればと思うのです。


 気が向いた時、適当に、気負った文章は今回限りにしたいです。


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